6月10日(木)

ひとまず、お庭作り完了。もうちょい銭があれば・・・。

Nagaiki-工房さんにタダ同然でデッキと遊具を作ってもらい、製材所でもらった廃材で柵をつくり、ミニトマト、なす、唐辛子、幾種類かのハーブを植え、ジューンベリーバオバブを移植して、黒いデッキを増設した。もう疲れた。


で、オーガニックにまつわるアレコレに興味のある人。『ロビンソンの庭』をオススメしたい。とにもかくにも単純な自然賛歌の物語にだけは気をつけて!!


口蹄疫

参加しているMLで賞賛と共に紹介されていた詩。

http://kikuchiyumi.blogspot.com/2010/05/by.html

どうにもこうにもオーガニストってやつらは・・・。


>援助や募金をするのなら
畜産農家さんたちが別の職業につけるように
>どうか支援してください
>屠殺業者さんが別の職業につけるように支援してください
>精肉業者さんが別の職業につけるように支援してください


屠場労働者の差別と偏見との壮絶な闘いの歴史を慮れば、
こんなこと軽々しく言えないと思うのだが・・・。


本件に限らず、どうもオーガニストの言論ってのは、全共闘時代の左翼たちの、鼻持ちならない言論の構造に似ている。


ジョン・ホロウェイ『権力を取らずに世界を変える』から、ちょっと長いけど引く。

資本主義に対する左翼的批判のなかのひとつの傾向が、つまり、道徳的に一段高い場所を設定し、この社会を超越した場所に自分自身をおこうとする傾向があるように思われます。社会は病んでいるが自分たちは健やかだ、というわけです。自分たちは、何がまちがっているのかわかっているけど、社会が病んでいるので、ほかの人たちにはそれがわからない、というのです。われわれは正しい。われわれはまちがいのない意識を持っている。われわれが正しいということがわからない人間は病んだ世界にだまされて、まちがった意識にとらわれているのだ。−−このようにして、私たちの出発点であった怒りの叫びは、たやすく、自分は正しいといって社会を告発する道徳的エリート主義になっていってしまうのです。・・・どうして、私たちは、社会は病んでいるけれど私たちは病んでいないということができるのでしょうか。いうことができるとすれば、なんという傲慢さでしょう!なんというナンセンスでしょう!社会が病気なら、私たちも病気なのは当然のことです。私たちは社会の外に立っていることはできないのですから。

僕は決してオーガニックを批判しているわけではない。オルタナティブな社会を考える上で、オーガニックは必要不可欠な要素になることは間違いない、と僕も思っている。ただ、「オーガニスト」は・・・。

ついでにもうひとつ引く。オーガニックに纏わる様々な分野に、様々な「カリスマ」がいる。そして、その「カリスマ」を信奉する多くの人たちもいる。『エドワード・サイード OUT OF PLACE』より。

エドワードには、たくさんの信奉者やファンがいました。彼はまったく新しい学問分野として、ポストコロニアル研究を生み出しました。その業績や遺産について、いまもいろいろな会議で研究報告がされています。「サイード研究者」を名乗る人が、大勢いることは間違いありません。でも、そこに「イズム」がくっついて「サイード主義」になると、そんな動きにはサイード本人でさえ抵抗したでしょう。ひとつのものの考え方に「イズム」をつけたとたんに教条主義が生じますが、そういうものにエドワードは懐疑的でした。彼は矛盾を好む傾向があり、それが後続の研究者に対する姿勢にも表れていた。ひとつの分野が堅固に固められて、宗教のようになるのを望まなかった。


権力を取らずに世界を変える

権力を取らずに世界を変える

エドワード・サイードOUT OF PLACE

エドワード・サイードOUT OF PLACE